どうして自己責任論は、どことなくムズムズとした感覚を呼び覚ますのか。
それはおそらく「致し方なかった」「そうせざるをえなかった」背景が、今の最悪な状況に至るまでに影響していたのだから、 「そんなに貶めないでくれ」、ひいては「優しくしてくれ」ということかもしれない。
しかし一方で「それでも選んだのは自分なのだろう、だから’責任’は負うべきではないのか?」と言われたりして、平行線をたどるのだろうか。
責任ってなに
仮に’責任’を追求している側の主張する彼らが何を求めているのか。
- 問題を第三者に置換するな
- 同情はしてやれない
ざっくりと’社会’(自分以外のなにか、親など)のせいにするのはおかしいという糾弾や優越と、情緒面でのケアを拒絶する意図があるように思う。
ここでいう「責任」には第三者的な視点があって、成功はわたしの手柄であることを誇るために、あるいは反対に失敗を貶めようとするために使われる。 言い換えれば、「責任」を使って情緒的なメリットを得ているようにみえる。
自己決定
ただ、彼らのいう’選択’に注目すると、さほど違和感を感じない。 つまり「選択したのはわたしだ」(彼らはこれを責任と呼ぶ)というのは、まさに責任を引き受けているようにみえる。
この点だけを見て’自己決定’と意味の範囲を狭めれば、だれもが同意できるであろうと思う。 言い換えれば、逆立ちしたって選択肢が1つしかなくても自分で決定をしてほしい、というわたしの個人の願望でもある。
必然はあるのか
反対に、自己責任にある種のやるせなさも感じる。 たしかに、選ばざるを得ないことはある。
- 公正な状況ではなかった
- だから分かってくれよ
極めて単純にいえば、やはり’社会’への違和感と、情緒面での同調を求めるような意図があるように思う。
こちらでは「責任」という言葉を使って、そのような社会でいいのか、という問いに、しばしば「人間としての道徳」を伴って、つながっていく。 疑問を呈すれば「あなたは冷たい」というような審判を下されることもあるのだろうか。
自己原因
一方でやはり、‘背景’に注目すると、理解できる部分がある。 それは「原因はわたしだけにはない」(彼らはこれを責任と呼ぶ)というのは、まさに社会の構造を言い得ているようにみえる。
同じように、‘自己原因’と意味のスコープを小さくすれば、だれもが同意できるであろうと思う。 たとえば、わたしは砂漠に放り投げられても生きていけます、と約束できる人間は、人間としての平均を遥かに超えているとだれもが認められる。
責任はセンセーショナル
「自己責任論」が妙に疲れる単語として認識されているのではないかと思う。 使い方によっては自分が気持ちが良くなれる。糾弾することもできるし、同情を引き出すこともできる。 だから気持ちの取り合いになりがちにみえる。
おそらく、説明したとおり言葉の定義に違いがある。 ‘自己決定’と’自己原因’。 自分で決定するのが成熟の証であって、同じようにすべての因果を自己に向けるのは傲慢だろうと思う。
議論は「社会に決められたと主張する人」と「すべてをコントロールできると主張する超人」がいるとなかなか進まないかもしれない。
公正な社会は甘えか
その上で「公正な社会に変えること」となるとイデオロギーになりがちで、本当に公正が正しいのかは分からない。 理想的かもしれないし、ディストピア的にもイメージできる。
どのような社会が良いのかの結論は先送りにして、 成功には称賛して失敗には同情したいと思う冬の日でした。
以上。
